五十歳にして体得した兵法の奥義は、後に取り組んだ諸芸の道にも応用できるものであった。実際、私は独学で絵や書をマスターした。
〈「地之巻」より〉
あらゆることについて、私に師匠はいない。一つの道を究めた者には、新たに取り組むほかのどんな道であろうと、師匠は必要ないのである。
武蔵は六十数回、「負けなし」の勝負を重ね、三十歳を過ぎてからはひたすら朝鍛夕練を積み、兵法の「利」、つまり兵法の根本をなす原理、真理あるいは極意とも言うべきものの体得に邁進した。その「利」をつかんだのは五十歳のころのことである。(中略)
私たちも武蔵に倣って、初めて取り組むことであっても、「先生につかずとも自分には習得できる」と自信をもって言えるくらいの「利」を、何かの道で体得したいではないか。
武蔵は「『五輪書』にその普遍の利を書いた」と宣言しているので、どの道に取り組む人にとっても『五輪書』に学ぶところは多いと思う。単なる兵法書を超えた真理の書なのである。
どんな場面でも平常心を失ってはいけない。緊張せず、たるみもせず、常に心をニュートラルにする。ただし、どんな局面にも瞬時に反応できるよう、心は常に揺るがせておかなければならない。
〈「水之巻」より〉
何があっても動じない。焦らず、あわてず、平常心で受け止める。そういう心の状態を保つことが大切であるとする一方で、武蔵は「無心になれ」とも「不動心を持て」とも言わない。
「心は常に静かに揺るがせておけ」と言う。この視点はおもしろい。(中略)
つまり物事に迅速かつフレキシブルに対応できるよう、心自体を「Iʼm ready」、準備万端の状態にしておく。それが武蔵の言う「心を揺るがせる」ことである。
人生には難所というものがある。そこでがんばるか、難所とも気づかずにやり過ごしてしまうかで、その後の人生は大きく変わってくる。難所を難所としっかり見極めて、「いまが人生の一大事」と思って事に当たらなければいけない。
〈「火之巻」より〉
朝に夕に鍛練を重ねてワザを完璧に身につけて初めて、思いのままに自由に動き、かつ結果を出すことができるようになる。
武蔵は人生を航海にたとえ、「船頭が潮の流れのきつい難所を知って、船をうまく乗りこなしていくように、全力で『渡』、つまり危機・難所を乗り越える心がけが必要だ」と言う。
最悪なのは、難所を難所と認識せず、ボーッと過ごしてしまうこと。たとえば「この一カ月で就職が決まる。生涯年収が決まる」という大事な時期に、「どうしようかな」と言いつつろくに就活もせず、のんびり日を送ってしまうようなケースである。(中略)
人生という海路を行く船頭の気持ちになって難所を見極め、がんばりどころをはずさないようにしなくては、海に吞み込まれてしまうだけ。「渡をこすと思ふ心」を持つことが大事である。
その道の達人は、動作はゆったりとしているが、やることは速いものだ。一日に四十里、五十里と行く人がいるが、朝から晩まで早く走っているかと言うと、そうでもない。ペースを上げたり、ゆるめたりするのがうまいのだ。逆に、一日中走っているのに、その成果が上がらないものがいる。
〈「風之巻」より〉
武蔵のこの言葉は、そのまま仕事に当てはまる。忙しいはずなのに、なぜかゆったりしていて、仕事がはかどっているのは「できる人」。「忙しい、忙しい」と始終バタバタしていて、毎日のように深夜まで残業しているのに、仕事がはかどらないのは「できない人」。というふうに言えるのではないだろうか。(中略)。
達人は現実の時間の長さに関係なく、常に「間に合う」。それだけ余裕があるということだ。
空には善だけがあって、悪はない。我が兵法の道は、剣術のワザの鍛練を通して、迷いのない心をつくるものである。兵法だけではなく、どんな道であっても、「我が道」を通して「空なる心」を得ることができる。
〈「空之巻」より〉
「空」という迷いのない心は、武蔵にとっての剣術の鍛練のような、何か具体的にやること、つまり「実の道」を通して知ることができるものだ。
それは、たとえば庭いじりを通して、人生を見るようなこと。一生懸命取り組んで、もし庭中の植物から「もっと水をください」「日光を当ててください」「もっと広いところに移してください」といった声が聞こえるようなら、偏りのない、迷いのない心ができた、ということ。「空」の境地にあると言えよう。つまり仕事でも趣味、勉強、日常の作業でも、「実の道」を突き進んでいった先には、必ず心は「空」になる、ということである。
1960年静岡県生まれ。東京大学法学部卒業。同大学大学院教育学研究科博士課程等を経て、現在、明治大学文学部教授。専門は教育学、身体論、コミュニケーション論。
主な受賞作品に1998年宮沢賢治賞奨励賞を受賞した『宮沢賢治という身体』(世織書房)、新潮学芸賞を受賞した『身体感覚を取り戻す』(NHKブックス)、シリーズ260万部を記録し、毎日出版文化賞特別賞も受賞した『声に出して読みたい日本語』(草思社)などがある。『座右のニーチェ』(光文社新書)、『現代語訳 学問のすすめ』(ちくま新書)、『超訳 吉田松陰語録―運命を動かせ』(小社)など著書多数。NHK Eテレ 『にほんごであそぼ』の総合指導もつとめる。