パリに印象派が浮世絵の色濃い影響を受けて生まれ、活動していた時期は、黒田清輝がパリに留学していた時期と重なります。1874年にのちに第1回印象派展と言われることになった展覧会が開催され、1886年までこの発表は続きますが、黒田のパリ留学は1884年から1893年でした。モネがジヴェルニーに移転したのが1883年、そしておびただしい睡蓮の連作を発表することになるのですが、まさにその時代のパリは才能のある若い画家たちが多く集まり、芸術の都の名を欲しいままにしていた時代だったのです。
黒田がパリ留学中に描かれた印象派の傑作は枚挙にいとまがありません。ドガ「浴盤」が1886年、ゴッホの広重の模写「梅の花」が1887年、ゴーギャンの「浜辺に立つブルターニュの少女」が1889年、ルノワールの「ピアノに寄る少女たち」が1892年。黒田はそれらの天才たちの偉業を目の当たりにしながら、臆せずひるまず、バイタリティをもってその巨人たちに肉薄しようとしました。その痕跡は色使いや構図などを通して彼のパリ時代の作品から随所にうかがえます。
同時にヨーロッパ絵画のダイナミックな歴史画や神話を描いた壮大にして稀有な作品群にも黒田は十分な理解を示していました。それは実は印象派がページを次にめくり、過去のものとして決別した世界観でもありましたが、流行に惑わされたり流されたりすることなく、ヨーロッパ絵画の真価も冷静に見据えていたのだと思います。とにかくパリ時代の黒田は、今やらなくてはならないことは人体のデッサンと油絵の技法の習得であると心を決め、かの地で充実した日々を過ごしたのです。
さてこの「湖畔」ですが、これは帰朝後、のちに黒田の夫人となる女性を描いた作品です。油絵技法という外国の文化を学び、フランス語をわがものとし、パリに短くない日々暮した黒田が描くにしては、あまりに日本的、と思えるかもしれませんが、実は日本に帰国して、黒田はこのような風土的な主観の農村の様子や土着的ですらある農夫、そして日常の出来事を確信的に何十枚と描きます。
実はこの油絵技法を用いて自分の足もとの風土を自信を持って描く、この態度こそ、日本の美術界を牽引して今日に続く道筋をつくり上げた黒田の、自尊心に満ちたスタート地点の志だったのです。
私は日本人の描いた油彩画の中でこの「湖畔」こそが、世界に通じる最高傑作の一つであると考えています。これは油彩を技法と割り切り、人類共通の「文明」としてきちんと評価し、必要なことをアカデミックに学び、しかし西欧のアカデミズムにはそれ以上は深入りせず、同時に流行をいたずらに追うのでもなく、その描くべき内容は自分のバックグラウンドに裏打ちされた感性のとらえた世界であってこそ、国際的に通じる普遍性がある、と確信したこの黒田の見事な姿勢により生まれたのです。
この考え方は異国で見たジャポニズムや浮世絵とその評価を通しても深められていったのでしょう。印象派の驚くべき作品群の主題が、日本の文化から影響を受けた身近の自然な日常であることを、黒田は当然十分に理解していたことと思います。パリ時代の黒田もそのような日常のひとつひとつの光景をごく自然に作品化しています。しかしそれは印象派からの影響というより、それらを通した日本文化の本質の再認識というべきではなかったのかと私には感じられるのです。
つまり、他の誰でもなく、当の日本人である黒田自身も印象派同様、パリにおいてジャポニズムや浮世絵から大いなる刺激を受けていた、そしてそれが後年実を結んだのがこの名作「湖畔」なのではないか、と思うのです。
日本から離れて初めて日本文化が見える、という経験は私にもあることです。黒田もそうだったのかもしれない、と思うと、海外に留学したり暮したりすることの大切な意味は、意外とこの辺にあるのかな、とも感じさせられます。
―フジタさん、今回はファンを代表して、今まであまりお話しされていなかったパリや日本のことをお伺いしたいと思います。
「私は面相という日本画のとても細い筆と、絵の具にシッカロールなどを混ぜて作った独自の乳白色を用いたクロスオーバーな技法を駆使していました。もちろん日本のアカデミックな当時の油絵教育では日本画の筆を使うなど言語道断で、全く認めてはもらえない技法です。しかしそれを持って描く世界は今までのどこにも属していないとてもオリジナルな絵であったわけです。私は印象派が使うことのなかった黒を多用し、同じく色とは思われていなかった白、つまりこの匂うような肌の雰囲気をかもし出すこの乳白色との対比で、とてもシックなエスプリに満ちた画面をつくり出しました。それは色彩のあふれた当時のパリでとても新鮮に映ったのでした。
(中略)
しかしそんなオリエンタルな雰囲気の油絵を描いていること、そして私の私生活などが日本に面白おかしく漏れ伝えられ、トリッキーなお調子者と取られたようでした。閉鎖的で嫉妬深い日本の美術界からは私のそんな枠からはみ出たような活動がパリで評価されるなどということは許されないことで、私の立ち振る舞いも含め、やっかみで相当妬まれたのです。そもそも私の恩師の黒田清輝先生は東京美術学校在学中から全く私を認めていなかったのです。日本有数の画壇の権力者である黒田先生はとうに終った印象派の技法をふりかざし、そのスタイルを強く推し進め、それに従わない絵は否定しました。時はすでにフォーブ、シュール、キューブ、そして素朴派という全く新しい才能の開花した時代に移行していたのにもかかわらず、ご自身のパリで学んだ一昔前の流行を油絵の理想として学生たちに従わせていたのです。その方針に私は納得できなかったのです。そして黒田先生の審査している官展には何回出しても決して入選させてもらえませんでした」
はたしてフジタはパリで何を描くのか……つづきは本書【寝室の裸婦キキ 藤田嗣治】をお楽しみください
仮に私が、何かの偶然がいくつも重なって、エル・グレコのことだけ全く知らずに絵画の専門家として今日を迎えていたとして、この絵を見せられたとします。そしてこれはいつ頃の何歳ぐらいの画家の作品か、と尋ねられたら、もちろん現存している現代作家で歳の頃は30代前半、と確信に満ちた答え方をすると思います。ひょっとしたら20代後半かもしれない、なぜならこの緑色の使い方は若々しく、構図は雄大にして希望に満ちている。空は夢とロマンにあふれ、光を感じ、しかしわずかに影も感じる。これは何というか、若さゆえの思春期の持つ暗さのようにも見受けられる。画面が青春している感じかな……。特に左下の樹木の描き方が生き生きとしていて素晴らしいし、右上の建物もまるで冒険小説に出てくる古い城のようだ。わくわくと胸おどらせて描いたのだろうな。右下の草は萌え、小川は音をたてて流れ、雲は輝き、時として輝く太陽が顔を出しもする。それを見たら誰だって思わず深呼吸をしてしまう。この作者もきっと深くゆったり呼吸をくり返しながら、この壮大な絵を味わって描いていたのだろうな。
この描写力から考えるとちゃんとアカデミックな勉強を積んだ画家とみた。黒の使い方がうまいから、ひょっとしたら日本人で、東京藝大大学院に在学中かなんかじゃないの? とにかく若い画家。間違いない!
実はこの人は16世紀のギリシャ生まれ。今ではルネッサンス時代の巨人ミケランジェロの技巧を最高の手法として守り、模倣してゆく、いわゆるマニエリスム期後期の最大の巨匠と評価されている大変な存在、その人の御歳56歳の時の作品なのでした。それでこの絵を描いた時、いったいグレコの周囲では何が起こり、一体彼はどうしていたのかというと、スペイン王室から依頼されて描いた「聖マウリティウスの殉教」が国王フェリペ2世から大変な不評をかってしまい、これにより宮廷画家への道が閉ざされ、失意のどん底で拠点としていたトレドに戻って来て、その時描いたのがこの作品、「トレド眺望」だったのです。
失意のエル・グレコはなぜこの生命力あふれる絵を描いたのか……つづきは本書【トレド眺望 エル・グレコ】をお楽しみください
富士山の青色が、子供がお絵描きで使う「青」のような単純な色に見えますが、なかなかプロにはこういう絵は描けないものです。上手いのか、下手なのかわからないギリギリの所で、こういう作品は天下の大々巨匠横山大観だから許されるのであって、それも「わ、大観先生、今回はまた特に幼心というんでしょうか、素直な力作でございますな」と言われ、衆目を集めたことでしょうが、では今この様な作品を公募展に出品したとしたらどうなるか。
それは考えるまでもなく、まず、間違いなく一発で落選します。「もっと何とかならないか」と審査員に言われ、「ほら、例えば雲に変化をつけて、写真みたいな陰影もつけるとかさ、何とかしろよ。単純にもくもくし過ぎなんだよ。それに富士ももっと細部を拾って描写っぽくするとかさ、そうしないと、ただ三角の青で、これじゃあ子供の絵みたいなんだよな。もう話になんないよ」と言われることでしょう。が、そうやって駄目になっていったのが現代の日本画です。
「白い雲がもくもくと、ずっと続いておったんだ。その中に、あれは何だろうと思うような、青い三角形が遠くに見えてきた。操縦士に言って少しずつ近くに寄ってみたら、はたしてそれは富士じゃった。初夏なので雪もほとんど溶けており、それはそれはただただ青く、ひたすら青かった。それだけだった。わしはそれに感動した。いつしかわしは少年の頃の、初めて富士を見て美しかったと感じた心を取り戻し童心に帰っていたのだ。
思えば今、陸軍の飛行機をチャーターしてこうやって霊峰富士の取材をしておるが、本心を言えば、神国日本の霊峰というより、富士は勇気を与えられ、生きる力を与えられ、生きていてよかった、と感じさせてくれるリアリティーの源泉じゃな。だから有難いんじゃよこの山は。だから「不二」とも書くのだろうかな。そしてそれを美的感動というのだが、わしは今しばらく忘れていた真の美的感動に酔いしれておるわい。
雲の上空の青空はどこまでも広く続いていて、これは絵の具では表わせんかもしれん。そうじゃ、金箔を使ってこの煌々とした感じを表してみよう。ただただ広がる雲海は、左半双を全てこの雲だけにしなくてはとうてい伝わるまい。広い、明るい、健康的、おおらか、そんな感じを何とかして伝えてみたいのう」
と大観先生は雲の上で感じたことと私は思います。ここには上手いとか下手とかは入り込む余地がない感動があります。
しかしそれを「雲は一つ一つにどんな形の違いがあって、光があたって影がどうついているか、富士は斜面がどのような角度で残雪はどんな表情があって、青く見えるがよく見ると細かい色々が見えてくるからそれも克明に描いて……」とやればやるほど、最初のどかんときた感動は伝わらなくなって、「飛行機から観察した初夏の雲上の富士の図解説明」を目指してゆくことになります。そして結果つまらない絵になってゆくのです。
大観がこのような見事な、言わば「少年の感動」をいきいきと描き示しているにもかかわらず、その後継とも言うべき現代日本画壇の人びとはどんどんその対極の、この図解説明的世界に向かっていってしまっています。
息も絶え絶えな、そんな現代日本画壇に向って大観はこの作品を通して雲の上から全身全霊を傾けて、この感動を何とか伝えたい、諸君、わかるだろ!? と語りかけています。それがこの「雲中富士」。大観、52歳の作品です。
登場人物は全てテーブルの反対側に座ったり、立ち上がったりしていて、この作品が通常の食事の光景ではなく、劇場における舞台の一シーンの様な構成になっていることが驚きを呼びます。絵の周囲には額のようなわくも自身の手で描かれていて、これは確かに舞台上で演じられている劇の一場面ではないか、とする印象をより確かなものとします。それにこの絵の遠近法はこの設置された空間の特定のある場所から見た遠近に忠実な遠近法になっているともいわれています。そして人物は実寸大の大きさで描かれています。つまりこの作品は、実際の「最後の晩餐」を演じたレオナルド演出の舞台として設定され、描かれたと私は考えています。そしてこの舞台劇という言わば逃げ場を用意したうえで、そこにレオナルドは様々なショッキングな"なぜ?"を盛り込みます。
(中略)
先入観がゆさぶられているのは後世この絵を目にしている私たちです。
つまり"なぜだろう"と問う自らの人生をかけた姿勢こそを私たちにも伝え、刺激を与えるのがこの絵画の目的だったのではないでしょうか。確かに「最後の晩餐」を描いてほしいと依頼を受けたとして、レオナルドがそのまま、はいそうですかとそれを受け、ステレオタイプのルネッサンス以前の、いわゆる中世風の「最後の晩餐」の光景を描いたと考える方に無理があるかもしれません。相手は中世に生きた一介の画家ではなく、ミスター・ルネッサンスである人類史上最高の天才レオナルド・ダ・ヴィンチなのです。
いくつもの"なぜ?"を通して私たちをゆさぶろうとしているレオナルドは、私たちに、口に出しては伝えられないようなある考えを秘かに伝えようとしているのではないかとも思えてきます。この固定観念を疑ってかかるというような行為は中世キリスト教会にとっては大問題でした。いやあこれは劇の一場面なんだ、と言ってその時の追求をかわしたレオナルドは、いくつかのこの難解な問題を設定して、時を超えて後世の私たちに向かって、考える姿勢を実践させようとしていたのではないでしょうか。
レオナルドが伝えたいこととは何なのか……一緒に考えてみませんか? つづきは本書【最後の晩餐 レオナルド・ダ・ヴィンチ】をお楽しみください。
オランダのどんより暗い薄曇りの空の下、街からはまるでかき消されたように物音一つ聞こえない、そんな空気感をたくみに表現した、それがフェルメールの特長だと思います。
しかし当時のオランダ絵画、オランダ文学において登場する人物やモチーフにはしばしば意外な意味がありました。それは時として隠された寓意であり、時として暗黙の了解事項であり、それを読み取るのが知識や教養というもので、それがこの手のリアリズムの絵画の鑑賞法であったとも言えるのです。
(中略)
まずこの女はメイドです。現代でもメイドカフェというのがあり、メイド服姿の女性従業員が「ご主人様」として客を迎えるそうですが、私は行ったことがないので詳しくは知りません。店に入ると「お帰りなさいませ」と言う店もあるそうで、まさに自宅に帰って来た主人という設定です。そしてある感情、踏み込んで言えば恋愛感情の入口の様な気分をも楽しむ、これがこのメイドカフェなのでしょうか。このメイドなる存在がその様な男性の欲望を多少にせよ掻き立てるイメージとして現われたのは何も現代の東京秋葉原が発祥の地ではなく、さかのぼればフェルメールの時代の17世紀オランダにおいても、メイドといえば時として現代のメイドカフェと同じような性愛や性交渉を喚起させる存在として時として絵画には登場していたようなのですから、歴史を紐解くことはトリビアに満ちていて興味が尽きないものです。それをふまえてこの絵を見ると、さまざまな隠された意味を発見することとなります。
(中略)
メイドの中でも特にミルクメイドという存在自体、17世紀オランダの文化においては、それが画中に現われるとなると特別の性的意味を想起させる存在だったという指摘もあります。それらを前提にすると、フェルメールがここに描いたのは、もしかしたら何やら静謐な空間で心が落ち着く、等とは言っていられない胸騒ぎを覚える状況ということもありうるのではないでしょうか。オランダ絵画はだから面白いとも言え、しかしだったらもっと直接描けよとも言いたくなりますが、きびしい宗教上のしばりの中、それは出来なかったのです。
時はさかのぼれども所詮は今と変わらない男と女の世界です。静謐な画面にもかかわらず、そのまさに正反対の意味を隠し持つという事が、この作品の得体の知れない面白さではないかと思います。
何食わぬ顔をして静かにミルクを注ぐメイド、彼女はある秘密のサインを絵を鑑賞する人びとに送っている。
隠されたメッセージを紐解くとき、絵のもうひとつの顔が見えてくる……つづきは本書【牛乳を注ぐ女 フェルメール】にてお楽しみください。
今まで描いたウォーターフォールの作品は、少なく見積もっても2000作近いと思います。私は大きい作品、小さい作品合わせて年に200作の制作をしています。それが30年ですから、合わせて6000作の作品を生み出しているのです。もっともその中には納得いかなくて、完成と同時に破棄した作品も少なくありません。しかしこのペースではあと20年制作を続けても10000作にしかならず、ピカソ5万作、北斎3万作、というレベルには遠く及びません。しかしこれ以上のペースアップは無理で、むしろ年々ペースは落ちてきています。その中で、30歳代からずっと描き続けているモチーフがウォーターフォールです。
私はモチーフというものは芸術の女神(もしいればということですが)からのプレゼント、もしくは課題と思っていますので、与えられたモチーフはくり返しくり返し一生描いていくものだと考えています。従ってウォーターフォールもぼう大な点数に至っているわけです。
初期のウォーターフォールは荒々しく勢いの強い作風だったのが、静かに調和のとれた美を追求する作風へと確実に変貌を遂げていて、昔のような、時として無骨とも感じられるようなウォーターフォールは今はもう描きたくても描けません。同じモチーフを描いているからこそ、その変化に気付くことができて、50歳代後半にさしかかった今の私の心境が、30歳代とはずい分違うものになってきたのかなと、これらの作品を通して教えられます。
しかしウォーターフォールを描く時にたえず同じに思っていることがあります。それは可能な限り、誰もが感じるような最も平凡で自然な感じにしたいということ、そしてふと目をやった時、しぶきが動き、滝が上から下に動いて見えるような錯覚を覚えるような感じになったらいいということですが、なかなか上手くいくものでもありません。
自然の側に身を置き、自然現象を画面に取り入れたいと思って、上から下に絵の具を流したり、さらにしぶきはエアブラシや霧吹きでふきつけて、より自然な感じを出そうと色々苦心しています。結局毎回アトリエで滝とは何かを実験している感じ、とでもいうのでしょうか。滝を見た時に体中で感じる心の洗われるイメージや滝の振動、ひんやりとした湿度、ずっとながめているだけで元気になってきたり、生命力を感じてきたりするような心の状態、そんな滝の実体験を可能な限り正確に描き出したいのです。
人びとから必要とされる芸術作品は、人びとから必要とされる何かがそこに含まれているから人びとから必要とされるのであって、それは滝を例にすれば、滝を見て心がおだやかになり、勇気がわき、生きる力が出てくる、そんな実際の滝と同じ体験を人びとが感じられるような絵が描けたのなら、私のウォーターフォールは国境も時代も超えて多くの人びとから必要とされ支持され続ける作品になるのだと思います。
そのためには誰とも同じ一人の人間として滝に向い、その感動を最も自然なやり方で表現し、最も普通の自然な滝を描く、ということなのだと思います。
そんなことを考えながら今日もまた新シリーズの"崖"と並行してウォーターフォールの新作も制作しています。ちなみに、大徳寺聚光院別院の滝の襖絵には年に何回も鳥が飛び込み、くちばしで画面に穴があいたりします。鳥が本物の滝だと思ったなら、こんな嬉しいことはないのですが、直すのは大変です。