私は特に経営がしたくて会社を起こしたのではなく、爆笑問題というタレントを世に出したい一心で、彼らのサポートをするために、私には何ができるのかを模索した結果、会社という箱を作るという答えに至って、そこには社長という役割が必要だったから、経営者になった。そのときは過去にタレント業をしていたことが大変役に立って、多くの協力者を得ることができたから、タイタンの今がある。
酒に酔った私はよく子ども返りして相当な無茶をするようだから、朝目覚めたときに愕然とする。すり傷に切り傷、痣だらけ。子どもの頃にお転婆した状態は今も変わらない。だが私は子どもでもなく、十代でもなく、ピチピチの二十代でもない。三十代はどこかに消えてしまって、そのときどうだったか見当もつかなくなっているが、ここ数年のこの状態ではなかったと思う。
治らない傷を増やしながら、無理がきかない年齢を実感しているのが女として悲しいのだ。
ちょうど日が高い正午には、松下村塾にたどり着いた。明治維新の夜明け前、志を持った多くの若者が通った私塾は、眩しいほどの日差しが降り注ぐ場所に建った小さな寺子屋風だった。そこにあった説明書きに、吉田松陰が刑死に処されたのは30歳だったと書かれていて、とても驚いた覚えがある。まだ17歳だった私は、「あと13年しか生きられないなんて……」と、空想したら、ますます恐くなった。47歳(2011年当時)の私から、あの頃の私に言ってあげたいほどである。「心配しなくても大丈夫よ」と。
三十代の頃、孫の顔が見たいと望む親の気持ちは至極普通の感覚だと理解した。だから、嫁の立場としては、最低限の努力はする必要があると思ったので、未知なる不妊治療に挑んだ。しかし、治療は意外に大ごとだった。日々の女性のからだの状態が、こんなに変化しているものとは思わなかったし、病院通いが一カ月のうちの二十日以上も占めるものだとも思わなかった。
唐突なことを言うようだが、お墓がない。そんな映画のタイトルを聞いたことがあるが、これは映画ではなく、現実に今、私に起きている切実な問題なのだ。入院生活を送っていた夫の父が亡くなって、通夜、葬儀と慌ただしい日々を送ったが、一段落ついて、嫁の私にも父のことを懐かしみ、四十九日の法要までに心の整理をする時間が訪れるのかと思ったのもつかの間、父の遺骨はどこに行くのかという疑問が頭をよぎった。
嫁の立場でこんなふうに言うことではないのは承知のうえだが、夫の父はなかなかの変わりもので、初対面から一目瞭然、面白いオジサンだと思った。
表に出て仕事をしている夫は、ご存知の通りの感じだが、本来の性格は内向的でおとなしい。思慮深く、あまり余計なことを言わない夫の母の性格が本来の夫の性格で、仕事中、番組などではしゃいでみせる夫の性格は、父親の性格が遺伝した部分だと思われる。子どもというのは、両親の性格をきっちりミックスしてできているものだ。夫を見ていると特に実感する。
舞台が終わって挨拶に行ったら、「ちょっとその辺、行くから、一緒に行くかい?」と、銀座にある談志さん行きつけのお店に行った。
「……酒弱いんだって? よし、分かった。今日はハイボール三杯呑めよ。一人三杯。分かったな」。嫌な予感がしたが、二人はそろって「ハイ!」と言い、ハイボールを呑み出した。呑めない二人が心配だったが、私もハイボールを持たされて、呑みながら目の前にいる談志さんを穴が開くほど見ていた。本当にこれは現実なのかと不思議だったのだ。談志さんは爆笑問題にアドバイスをしてくれていた。
「くりをね、もらったんだけど、どうしたらいいと思う?」。
冬に栗とは珍しいと思った私は、どんなものかとママさんに尋ねた。「生の栗をもらったの?」。するとママさん、あたり前よと言わんばかりの顔をして、「生といえば、生だけど」。さて困った。私は生栗を食べたことがないから、調理法を思いつかない。ボーッとビールを呑んでいるとママさんが瓶を持って近づいてきて、「みっちゃん、これ、くりをね……」。まだ悩んでいるのなら、茹でる提案でもしてみようかと、瓶をよく見たが栗が見えない。「何、それ、栗?」と、言ってみて気付いた。クリオネ。
私の中でこのケムンパスの大活躍は、妻が語った夢の話のようで、より幻想的なイメージで彩られていて、それで充分で、おそらく本編を確かめてもそれ以上にはならないだろうと思うのだ。この本を読んでいて久しぶりに妻からこの話を聞いて、改めて、ああ、妻らしいな。と思ったのだ。“ケムンパス”のことをここまで詳細に覚えていることがとても妻らしい。